猿投 棒の手

西三河で棒の手が伝承されて来た理由

棒の手に似た武芸は日本全国各地で伝承されていますが、それらはもともと室町時代や戦国時代に百姓達が自分の村を守る為に行われていた農民武芸と考えられています。

西三河でかくも盛んに棒の手が脈々と伝承されて来た理由につきましては、はっきりした事は分かっていません。戦国の世が終わり、棒の手が戦う為の武術から神社などへ五穀豊穣祈願の為に奉納する踊りのようなものへ変化し、今日まで伝えられて来たという事が一般的な考えのようです。

しかし、もっと深く考えてみると、単に変化したのではないと思います。
一度手にした武器や武芸を、太平の世になったからと言って、何の保障もなしに「はいそうですか」と捨て去る事が出来るとは思えません。いつまた戦乱の世に逆戻りするか分からない時代、表向きは神社へ奉納する踊りのようなものへ変化はしたかもしれませんが、百姓が武器を持つ事を許されなかった江戸260年の太平の世でも棒の手の伝承システムは機能しており、神社などへ奉納する表棒とは別に槍や刀を使用する裏棒は約260年もの長い間、一般の人の目にさらされる事なく夜な夜な脈々と受け継がれて来た訳ですから。

棒の手を研究されている横浜成城大学の佐藤氏(常民文化研究)は各村々で水をめぐる争いがあったのではないかと考えているようです。詳しい話を聞いた訳ではありませんので詳細は不明ですが。

確かに水は百姓にとって命の次に大事なものです。
この地域に限り、地理的に考えると
猿投町は豊田市北部にある小さな集落です。猿投山を中心に左右に尾根が広がっており、右手を猿投川、左手を広沢川が流れており集落もそれに沿って点在しています。
猿投川沿いを上切りと呼び棒の手は見当流を伝承しています。
広沢川沿いを下切りと呼び鎌田流が伝承されています。
なぜこんな小さな町で二つの流派が存在するのか
他の地域から侵略を受けた際に形式の違う棒の手が存在していた方がより生存率が上がるのか、又は猿投と広沢、もしくは加納、乙部、亀首などを含むこの地域全体で、水をめぐるいざこざがあり各地域で形式の違う棒の手を伝承する事により相手の棒の手に奥の手がある事を争いを避ける為の抑止力にしようとしたのか

そう考えると棒の手が伝承されて来た大きな理由になるかもしれません。
しかし、争い事がおおっぴらになると領主から厳しい制裁を科せられる可能性もあり、
あくまで争い事があった場合は話し合いにより解決をはかり、武力による闘争は最終手段として、棒の手は奥の手として存在し続け、今日まで伝承されて来たのかもしれません。

その他にも諸説あるかと思いますが

ただ若者が集まって
「暇だな~」
「じゃあ最近流行の棒の手でもやるか」
と始まり、延々と460年も続いてきたものではないと思います。
それは必要に迫られてその武術を会得せざるをえなかった理由があったのではないでしょうか。

以下は全く私個人の考えです。
棒の手がこの地で根付き伝承されてきた理由について、この地域が侵略により常に支配者が変わる事がなかった点、また、侵略により村々が崩壊し住人が散々になるような事がなかった点、それと棒の手創成期にあった武田氏の三河進行が大きく関係していると考えています。その他にもその時代に起こった事や、人々の気持ち、地理的条件などを加味して考えてみました。反論などあるかもしれませんが、ご一読下されば幸いです。

鎌田流は今から約460年前 西暦1553年 尾張 岩崎城(日進市)城主、丹羽勘介(氏次)の家臣の鎌田寛信に戦時の役に立つようにと領民に棒術を教え、その中から技術の優れた者を従えて猿投神社に棒術を奉納したのが始まりとされています。
見当流も同じぐらいの時期、西暦1554年 加賀国の浪人、本田遊無が尾張織田家にて棒術の指南をし尾張国内に広がったものだと言われています。以後、本山は猿投神社に移されています。

約460年前といいますと丁度戦国時代の真っただ中です。この地域の出来事では、
1560年、今川義元が尾張桶狭間で敗死すると今川配下であった徳川家康は駿河には戻らず先祖の土地である三河岡崎城に入り事実上これを支配する事になります。
家康は今川家を見限り、尾張の織田信長と軍事同盟を結びます。
これにより西三河は尾張と東三河に挟まれて直接戦場にならず、侵略も受けにくい比較的安全な地となりました。

ところが1571年、甲信二州を治める武田信玄が京へ上洛する為、西へ軍隊を進めます(三河進行)。猿投からほど近い三河 足助城は落城しますが信玄は途中で病死し上洛は中止となり、家康の家臣で元城主鈴木氏がこれを奪還します。(足助から猿投まで直線で約15キロです)

1573年、信玄の四男、勝頼が武田家の家督を継ぐと木曾方面へ進出します。
待ち構える織田信長、信忠親子を敗走させ
土岐 明智城を落とし、次いで再び三河 足助城を落とします。
勝頼は一旦ここで三河から離れ遠州、高天神城を落とし、北条への備えとし、
1575年春、再び三河進行を開始します。まさに破竹の快進撃です。

勝頼は家康と酒井忠次の籠る吉田城(豊橋市)へ1万5千の兵を進めます。吉田城は堅城です。包囲されたとて簡単には落ちません。なので家康以下8千人の将兵は討って出ようとしませんでした。
勝頼は付近の村で青田刈りを行ったり、豊川の堰を切り大規模に田畑を水浸しにするなど村々に対して嫌がらせを行います。普通そこまでされれば領主の面目は丸つぶれとなり、討って出て戦うでしょうが家康は城から討って出ようとしませんでした。

この状況を西三河の民はどう見ていたのでしょう。
電話やテレビもない時代ですが、自らの生命や財産に関わる一大事です。
方々に間者を放ち、状況は逐一西三河の各村々にも知らされていたのではないでしょうか、
侵略とは無縁だったこの地の人々はにわかに色めきたったかもしれません。

「穂の国(東三河)はたゃーへんな事になっとるみたいだがね」
「足助がまた落ちたらしいぞ」
「秋にはわしらの村にも恐ろしい武田のサムライが来るかもしれんぞ、そうなったら根こそぎ持って行かれるぞ」

襲われる村々や田畑。助けに来てくれない領主。

次は我が身と戦々恐々、絶望の中で日々不安に暮らしていたのかもしれません。
また、村々の長老達はどのようにして村を守るか話し合っていたかもしれません。


一方吉田城近辺にいた勝頼は作戦を変えます。
村がダメなら城ならどうだと言わんばかりに今度は長篠城を包囲します。
奥平貞昌以下500人足らずのこの小城は1万5千人の武田勢に包囲されます。
さすがの家康も家臣の救援には来ぬ訳にはいかぬと勝頼は踏んだのでしょう。
ところが家康は救援に向かいませんでした。
おそらく武田陣営では当てが外れてしまい長篠城を落としてさっさと甲斐に引き揚げるか、家康が来るまで待つか、もめていたにちがいありません。
「家康は腰がぬけて動けないんじゃないのか」
そんな話題を酒の肴に武田陣中は盛り上がっていたかもしれません。

1か月を過ぎた頃ようやく信長が3万(2万とも言われている)の兵を引き連れ援軍に駆け付けて来てくれました。家康はこれを待っていたのです。
自軍だけでは太刀打ち出来ない武田軍にどうしても信長の力が必要だったのです。
以降の結果は歴史が示す通りです。
武田軍は大敗します。世に言う長篠、設楽が原の合戦です。

武田の脅威が消えたとはいえ
三河の百姓達はどうだったでしょうか
「家康さまは戦さに勝たっせーたが我ら百姓は散々な目に遭うたでかんわ」
この一件で領主である家康に対して不信感をもったかもしれません。

直接の被害を受けなかった西三河の民も自らの村と身は自らで守る道を模索しはじめたのかもしれません。その時、当時最新鋭の武術であった棒の手を取り入れ、村の若者達に会得させ、時代がどのように変わっても後々まで伝承させるシステムを作り上げたのかもしれません。