猿投 棒の手

長久手の戦役と棒の手、丹羽氏次と鎌田寛信

長久手古戦場跡地内に資料館がありますが、長久手の戦役がどのようなものであったかがジオラマや写真などで詳しく公開されています。2階は長久手町の歴史や、ごくわずかですが長久手町の郷土芸能として棒の手についての展示もあります。

長久手の戦役で注目すべきは、丹羽勘助氏次とその家臣鎌田寛信も戦に参加していたという事です。
つまりそれがどういう事を意味しているかというと、もしかしたら鎌田寛信が手塩にかけて育てた棒の手隊も戦に参加していたのではないかと考えられる点です。いえ、必ず参加していたに違いありませんが、その辺の絡みについては一切触れられていませんでしたので、少々残念に感じます。

岩崎城主、丹羽勘助氏次や棒の手隊を組織した鎌田寛信が当時どのような立場であり、どのような行動をとったかを少し書いてみたいと思います。
西暦1582年、織田信長が本能寺で暗殺されると、信長の配下であった丹羽氏次はそのまま息子の織田信雄の配下に収まります。後年(1584年)、羽柴秀吉 対 織田信雄・徳川家康の連合軍が小牧、及び長久手で戦う事になり、信雄配下の丹羽氏次は当然織田・徳川連合軍に参加します。
丹羽氏次は小牧山に陣を構える徳川家康の元へすぐさま参陣したようです。
一方岩崎城の留守を守るのは氏次の弟の氏重と配下の300人余り(200人とも言われている)

小牧辺りで両軍は睨み合っていましたが、膠着状態を打開する為、秀吉方の武将、池田恒興が先方隊となり家康の本拠岡崎を目指します。岡崎への途中、岩崎城下を通った時、真っ暗闇の中、6000人余りの池田勢に向け鉄砲が撃ちかけられます。当初、岩崎城は攻略する予定はなかったようですが、激怒した池田恒興は城兵わずか300人余りのこの城を攻め落としてしまいます。丹羽氏重と城兵は全て戦死したそうです。

丹羽氏次はこの時、家康の道案内役をしており、鎌田寛信もつき従っていたと考えられます。
恐らく丹羽正規軍の多くは丹羽氏次と共に家康に従軍しており、岩崎城は人手不足により、守兵の中には棒の手隊も含まれていたのではないかと考えられます。

長久手の戦役で丹羽一族は氏重や岩崎城を失いながらも岡崎奇襲を阻止し、また家康に付き従い大きな活躍をして大変感謝されたようです。後に丹羽氏次は三河国伊保一万石の大名になっています。
戦が終わった後、鎌田寛信は僧侶となり戦で戦死した人々の御霊を弔ったと伝えられています。
サムライであればそのまま丹羽氏次に従い自身も出世出来ただろうに
自らが組織した棒の手隊を死に追いやって自分だけ良い目を見る事が出来なかったのでしょう。

故郷の尾張に帰った後は、住民に懇願されて鎌田流棒の手の道場を開いたと伝えられているそうです。



以下は長久手古戦場公園内にある資料館です。
長久手町内には見当流、起倒流、鷹羽検藤流、藤牧検藤流の4流派が伝えられているそうです。
長久手古戦場公園内資料館 長久手古戦場公園内資料館2階展示室



以下は岩崎城です。往事はこのような立派な櫓があったかどうか定かではありませんが、資料館内には丹羽一族に関する記述や長久手の戦役に関する展示がなされています。
猿投神社 絵巻物 猿投神社 絵巻物
岩崎城における棒の手の展示はこれのみです。棒の手鎌田流発祥の地にしては少々寂しすぎる気がします。
日進市では見当流、検藤流、起倒流が伝えられていたそうですが、現在では見当流のみが伝承保存されているそうです。